銭湯へ
昨日は娘を寝かしつけてから一人で銭湯へ行った。
前々から散歩中に気になっていた銭湯だ。入り口の横にたくさんの薪が積んである。
中に入ってみると、ロビーや脱衣所など、いたるところに花やグリーンが飾ってあった。
瑞々しいとはこういうことを言うのか、というくらい、どの鉢のグリーンも綺麗な緑色をしていた。大きな湯船からのぼってくる湿気がいいのだろうか。
私は前々から、「銭湯の鍵を足につける女の子は海の家でバイトする系」説を提唱していているのだが、昨日の銭湯にはそのタイプの女の子は見当たらなかった。おばあさんんが多かった。
銭湯の洗い場で「これがいつもの手順です」という感じでチャッチャと身体を洗っているおばさんを見ると、勝手ながら、ああ地に足のついた生活をしてきた人なんだな、と思う。私はいつも、メイク落としをつけていないのに手を濡らしてしまったとか、タオルがなくて背中が洗いづらいとか、固定された蛇口の下で身をくねらせて泡を流したりだとかで、こなれることがない。何度も銭湯に行っているのにだ。なんとなく、自分の母や父も、銭湯に不慣れなタイプの人間な気がする。
ホクホクとした身体でロビーに出ると、NHKでエレファントカシマシが「赤いスイートピー」を歌っていて、冷たいジャワティーを飲みながらおじさんやおばあさんと一緒にその番組を見た。マッサージ機を使用中のおじさんが「ずいぶん懐かしい曲やってるな!」と、嬉しそうに連れ合いの人に声をかけていた。そのマッサージチェアはドライフラワーや花のリースに囲まれていて、私の座っているベンチからはおじさんがまるで花園の中でうっとりしているように見えて、少し可笑しかった。
帰りに自転車で夜道を走っていると、いつも娘と散歩をしている時とは違う道のように思えた。娘も大きくなったら、楽しいことがあった日や楽しくないことがあった日に、夜道をこんな風に自転車で疾走するのかもしれない。
家に帰ると娘はぐっすり寝ていて、夫がビールを飲みながらTVを見ていたので、一緒にノンアルビールを飲みながら堅揚げポテトを食べた。
夜の途中
毎晩、20時頃に娘を寝かしつける。
つい自分もウトウトしてしまうと、シンとした部屋で目を覚ますことになる。
夕食の支度を再開する、録画したドキュメンタリーを見る、家計簿をつける、買ったままになっている漫画を読む、などなど、娘が寝たらやろうと思っていた事柄を頭に思い浮かべるも、だらだらと起き上がる気になれない日がある。自分のために時間を使える絶好のチャンスにも関わらず。
そんな時、近所のバッティングセンターから「カーン」というヒットの音が聞こえると、ああ、起きよっかな。と思う。
仕事の帰りにわざわざバッティングセンターに寄って汗だくになって、これから帰る人だっているんだ。夜はまだまだこれからなんだ。とりあえずお茶でも飲むか。
そんな感じでもそもそと起き上がる。
話は変わって、シマトネリコの元気がやっぱりない。
茶色く変色した葉がたくさんあり、指で触れるとハラハラと落ちる。
多肉植物が欲しいけど、新入りがどんどん枯れていくと悲しいので、とりあえずこのシマトネリコが軌道に乗るまで我慢しよう。
土間の出窓にプラントスタンドを置いた。多肉植物を寄せ集めて置くのが楽しみだ。
最近読んだ漫画
『透明なゆりかご』を読んだ。1990年代に産婦人科で看護師見習いをしていた著者による、いわゆるコミックエッセイだ。
妊娠中、『コウノドリ』と共に気にはなっていたものの、産婦人科の現場で起きるあれやこれやについて先取りする勇気がなく、読めないでいた。
最近になって携帯にバナー広告が表示されるようになり、改めて読んでみた。いつもの散歩中に、本屋で買った。
ところどころで、ボロボロ泣いた。特に1巻の健太くんの話。
健太くんは、不倫の果てに野良妊婦となった田中さんから産まれた赤ちゃんだ。
田中さんは最初、せっかく産まれてきた健太くんにまるっきり無関心で、不倫相手の気持ちを自分に向かせることばかりに腐心する。しかし徐々に健太くんには自分しかいないことに気づき、心を入れ替えて著者と共に健太くんの世話に励むようになる。そして、生まれ変わったようなスッキリした表情で退院していく。
後日、著者は退院後間もなく健太くんが亡くなったことを知る。原因は添い寝中の窒息死ということだが、周りの看護婦たちはさもありなんという感じで虐待を疑っている。
しかし著者だけは違う想像をする。
お母さんと一つの布団で、夜中に泣き出す健太くん。眠い目をこすって、しかし穏やかな表情で授乳するお母さん。嬉しそうにおっぱいをコクコク飲む健太くん。そしてひっそりと訪れる悲しい静寂。
台詞のない淡々としたページだが、それが一層お母さんと健太くん二人きりの、愛に満ちた時間を際立たせる。布団の温もりまでがこちらに伝わってくるような2ページで、何度読み返しても泣いてしまう。
「私は健太くんは愛情につつまれて死んでいったんだと思いたかったー」著者の結び通りのことを、漫画を閉じた後もしばらく願ってしまうほど、心を掴まれた話だった。
なじむ
すっかりアルコールフリーのビールで満足できる身体になってしまった。1日の終わりに飲むと心から美味しい。今日の夕飯はジンギスカンとラムチョップという羊祭りなので、2本は飲んでしまうだろう。
先日遊びに来た会社の後輩には、「すっかりママですね……私と飲み狂ってたこと忘れないでくださいね……!」と言われた。大丈夫、軸足はそっちにあるつもりです。
娘と出かけると、病院の待合室、エレベーター、コンビニ、本屋、道端など、いたる所で人に話しかけられる。「今何ヶ月?」「あら〜可愛いあんよ!」「笑うのね!ンマッまっまっまー(謎のあやし言葉)」などなど。大抵は中高年の女性だ。
そのまま少し立ち話をする。「女の子?穏やかないい顔してる」「うちの子、男の子なんだけどね、このくらいの時は夜寝なくてね〜」「母乳なの?そう、ちゃんと出てる?」「うちは娘二人もいるのにまだ結婚しなくって……」などなど、会話の展開は三者三様。でもやっぱり、自分の子供が小さかった時の話をする人が多いかな。そして大抵最後はこう締めくくられる。
「今がいっちばん可愛いわよ〜」
私はこのやりとり、結構好きだ。見ず知らずの娘を可愛がってくれて嬉しいし、母(私)を気遣ってくれるのも嬉しい。さらに地域にも、母親という立場にも、なじんできたのかなと嬉しくなる。
よく「子育て中の母親が孤立しないよう、地域ぐるみで子育てを」みたいな無味無臭のポスターが役所などに貼ってあるが、今まで全くイメージが湧かなかった。
でも最近は、こういう風に自然に目を細めて話しかけてくれることなのかもしれないな、と思う。
ごく稀に一人で出かけた時は、誰にも話しかけられない。娘よ、母をなじませてくれてありがとう。
『いちごです』です
最近の娘は、
・グズグズしていても、絵本を読み始めるとジッとそちらを見る
・左手の握りこぶしを口に入れて舐める、時にそのせいでむせる
・よだれをたくさん出す。よだれかけが濡れきって寒そうなので取り替えるほど
・笑ってほしくてこちらがおどけると、声を出して笑う
・下半身をゆらゆら揺らしながら、腰にひねりを加えている
こんな感じ。じきに寝返りをするんだろうか。
今日はとても天気がよく、そして暑かった。
予定がない日は昼まで娘と寝ていることもしばしばだが、それだと冬は起きてすぐ外が暗くなってしまい、夜にかけてひたひたと罪悪感を感じていた。でももう春が来て、遅く起きようとも明るい時間はたっぷりあるので、とてもいい。
散歩中、どこを切り取っても絵になる空だった。
『いちごです』という、いちごを使った美味しそうな食べ物がたくさん登場する絵本がある。昨日、家に遊びに来た友人(高校の同級生)の横で娘に読んでいたら、さっきから「いちごです」しか言ってなくない?と言われた。そういう絵本なのだ。
宅配のパエリアを食べたり報道ステーションを見たりファッション通販サイトを見たりしながら、だらだらした。23時まで友人と過ごすなんて、久しぶりのことだ。
報道ステーションにはキムタクが出ていて、「強い風が吹いたら、しならないと折れちゃいますよ」と話していた。
シマトネリコと絵本のこと
昼間、掃除中にふと見たらシマトネリコがしおれていた。
慌てて鉢底から流れ出るまで水をやると、夜には葉が瑞々しくなって上を向いていた。このシマトネリコは無印良品のオンラインショップで買った。無印で売られている観葉植物はいかにも無印の家具と合いそうで、つまりあんな感じのインテリアが好きな人間の食指が動くようにできている。そしてほぼ鉢代なのだろうが、数千円はする。
今は母乳をだいたい3時間おきにあげているので、3時間で帰ってこられる範囲に散歩に出かける。そのお散歩エリアの中には幾つか花屋があって、ヘデラ、ポトスなんかはとても安く売られている。無印に頼らずとも、好きな鉢に好きな植物をセットして好きに楽しめるセンスと力量が欲しい。
今日は午前中、絵本の読み聞かせの会に行ってきた。劇団員の先生が、幼児に響く読み方のコツを教えてくれるというものである。私は娘と布団に寝っ転がって絵本を読むのが好きなので、娘にもできればその時間を楽しいと思ってもらいたい。コツは、腹式呼吸で読みなさいという、なんとなくそんな気はしていたものであった。
そして先生曰く、テレビはその電磁波が赤ちゃんに悪影響かつ、赤ちゃんの想像力を育てないとのこと。「例えばピーターパンに登場するワニをTVで見た赤ちゃんは、ワニはあの姿(たぶんフック船長の股がワニの口の上で裂けそうになるシーンのことと思われる)でインプットされてしまいます。それ以上想像することをしないのです」こう先生は話していたが、私は、だとすれば絵本でも同じでは?と思ってしまった。
子供ができると、以前の自分のものさしでは「変だな」と思うようなことでも、「マズい!取り返しのつかないことになる前に正しい教育をしなきゃ!」みたいな焦燥感から、妙な信念に傾倒しやすくなりそうだ。
自分で自分を混乱させて目の前にいる子供を翻弄することのないようにしたい。と、絵本と関係ないことをぼんやり考えながら帰った。もちろん絵本はこれからも読む。腹式呼吸で。
そんな気持ち
自宅の観葉植物が増えてきた。
パキラ、ポトス、シマトネリコ、ペペロミアイザベラ、アジアンタム。
それに、昨日買ったテーブルヤシ。
葉水をやったほうがいいようなので、霧吹きを探す。
Hawsというイギリスのメーカーのものが可愛いので、これにしようと思う。
明日で娘は5か月になる。
今は1日8回くらい母乳を飲んでいるのだが、母乳をあげる時(正確に言うと口に咥えさせた時)、懐かしいような、切ないような気持ちに胸の奥がギュっとなることがある。
最果タヒの詩の中に、子供を産むということは自分がちょっと死ぬことだ、みたいな一節が確かあって、勝手に、ああ、この気持ちのことかなと思っている。
自分はちょっと死ぬんだけど、悲しみはない。うまく言えないのだが、娘が産まれてこのかた、それまで味わったことのない種類の幸せに身をじゃぶじゃぶ浸していて、ああ、こんなに幸せなら、そら自分ちょっとは死ぬわな、納得です。という感じ。
毎月、誕生日の日には家族3人で自撮りをして、夫とケーキを食べる。娘も一緒にケーキを食べる日を、父も母も楽しみにしている。